雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

服装について

最近生まれて初めて服装に興味を持つようになった。いや、服装に興味が出たと言うよりかはファッションに興味が出たと言う方が正しいかもしれない。

 

今まで私は服装を考えるときに、その見え方という事に関して殊更に考えたことはなかった。小学生から中学生にかけて、周りの人達が異性を意識して、また学校の中で“かっこいい”と言われる立場になるために服装に興味を持ち始めた時も、私はてんで興味を持たなかった。私が兼ねてから服装に求めてきたことは機能性、すなわち動きやすさとそれが身体をどれだけ暖めるかということだけだった。もちろん、いざ服を買うとなった時には、機能性と価格を考えた上で自分の好みのものを選んでいた。しかし、その嗜好はあくまで優先度の低いもので、選ばなくてはならないから選んだまでのことだった。時には、周りの人にならって見え方を意識しようと試みたことはあるけれど、やはり私の中では優先度が低くうまく考える事ができなかった。そうして、そのような方針は20歳になる最近まであまり変わらなかった。

私がそのようなポリシーを持っていたのは、偽ることえの嫌悪感ゆえであった。服装というのは、言ってしまえばただの布だ。それを着ているのが私であれ、服装そのものが私ではないと思っていた。だから、服装を気にするということは意図的に、魅せるために“自分”という虚像を作り上げる行為のように思えた。その行為によって現れるのは自分ではない何かであり、私はそのように人に見られたくなかった。私は「本当の私」を見て欲しかった。だからこそ、自分の生理的欲求に叶うような服装をしたし、なるべく安い金額で済ませた。

 

しかし、最近になってようやく「本当の私」というものなど無いのだと思うようになった。また、私の行う行動、見た目、その全てが「本当の私」であるように思うようになった。そうして、それは他人にも、時には自分にも分かり得るものではないと思うようになった。私がいくら自分の生理的欲求に叶うような服装をしたところで、そんなものは私を見た他の誰にも伝わらないし、またそれとは別に私の服装に対して様々なイメージを持たれるであろうことを知った。服装は決して確固たる一つの「私」を表すものでは無い。人によって持たれる印象は変わるし、私としてもどのような印象を持たれれば正解なのかという事もわからない。

 

私はこのような服装への諦めを通じて、ファッションに興味を持った。つまり、ファッションというのは“本当の自分”を表すものではなく、イメージに対して自分を合わせようとする行為なのだと考えるようになった。例えばファッション誌を開けば、ファッションの様々なジャンルが載っていて、それがどのような印象をもたらすのかということを専門家が説明している。正確な文言を覚えているわけではないが、「デートの時に着るならコレ」「これを着て大人な女性に」と言った具合に、その服装が他人にどのように見られるのかという事が書いてある。つまり、それと同じ服装をすれば、大抵の場合において書いてあるような特定のイメージが得られるという事だろう。今までは、そのような特定の何かに自分を当てはめる事を嫌ってきた。けれども、服装なんかで相手が自分に抱くイメージを操作できるのであればそれは案外面白いものではないのか。どうせ、自分を表す事ができないのであれば、その場に合わせて特定の何かになるほうが、よりスムーズに周りの物事が進むのではないか。そのように思うようになった。

 

かと言って、十分なお金があるわけではないので、図書館でファッション誌を流し読むくらいのことしかしてませんが。お金ができたら、様々な自分の虚像を作れるのか試してみたいなあと思います。