雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

「欲しいもの」を欲していないという矛盾について

就職活動も無事終わり、平穏な日々を送っている今日この頃。大学に行って授業をうけたり、アルバイトをしたり、布団でゴロゴロしていたり。大学の課題はあるけれど、自由に使える時間が増え、心は凪いでいる。

しかし、心が凪いでいるということは、退屈と同義だと思っている。日々追いつめられることもなく自分のやりたいことをして、その上就職先が決まったことで来年からの生活もある程度保証されている。きっとそれは恵まれていてありがたいことなのかもしれない。しかし、現在にも未来にもスリルを感じない。欲しかったものが手に入っているのにどこか退屈なのはなぜだろうか。

それはきっと私が「欲しいもの」を欲していないということなのだろう。

例えば、マクドナルドのハンバーガーを食べたい時。当然のことながら、私はマクドナルドに赴きハンバーガーを注文する。そして、いつもと同じ、求めていた形、求めていた味のハンバーガーが出てくる。「あーこれこれ」と言いながらハンバーガーを食べる。そうして「マクドナルドのハンバーガーを食べたい」という欲が満たされていく。

そんな生活こそ、スリルがなく退屈な生活なのではないだろうか。求めているものが手に入り、それによって感じ得る快楽というのは、自分の想像の範疇を出ない。「欲しいもの」というのは、手に入る前に自分の想像力の範囲内に収まっている時点で”それまで”だ。そこからはどんな新しい意味も生まれない。

その観点を踏まえて敢えて言うのであれば、きっと私の「欲しいもの」とは、「欲しいと考えた事もないような快楽」なのだろう。全く予想だにしていなかったけれども、存外に楽しいことや気持ちのいいことこそが、生活の退屈を壊し、スリルを与えるものなのだろう。

今の私の生活に足りていないのはそのようなものだ。そして、就職先が決まり、将来の安定が保障されるということは、同時にスリルの入り込む余地の少ない生活がこれから待っているということだ。そのような生活にどんな意味があるのだろうか。

もしかしたら、私は「やりたいこと」を実現させているようで、単に自分の首を絞めているだけなのかもしれない…。

ガクチカ

「学生時代に力を入れた事はなんですか?」

「あなたが夢中になっている物事はなんですか?」

「あなたがこだわりを持って取り組んでいることはなんですか?」

これらは、就職活動を進める中で、企業のエントリーシート内で出てきた設問だ。どの業界のエントリーシートでも頻出であるこれらの設問に対して、私は明確な回答を未だ持てていない。私は21年間生きてきて、何かに”ハマる”ということがなかった。本は読むしアニメも観る。好きな音楽もあるし舞台もたまに観に行く。旅行もすれば、お酒を飲みにもいく。しかし、どれもオタクと言えるような知識もなければ、どれに対しても大したお金をかけたわけではない。実際、オタクと呼ばれるような人々にあったときは、特定のコンテンツに対する彼らの際限のない興味と情熱には感心してしまう。またある物事に対して、そのようなエネルギーを出せる彼らのことを羨ましく思ってしまう。私はそのような性格を持ち合わせていない。よく言えばフラット、悪く言えばなにもないのが私だ。

”ハマる”ものがないことに対して、今までも幾分か悩んではきた。自分自身から際限のない欲求が出てくるような物事を探し続けてはいた。今までそれは私の中の悩み事の一つにすぎなかった。けれども、就職活動をしなくてはならないこの時期になり、その悩みは現実的な問題として私の前に立ち現れてきた。企業はさも当然のごとく、特別に力を入れて取り組んだ物事や、興味をもっている事について問うてくる。まるで、そのような物事を持たない人間は社会にとって不必要だとでも言わんばかりに。本当にそのような人々が人類に不必要であるのかどうかは私にはわからない。けれども、何が不必要で何が必要かを断罪するのは世間であり社会だ。彼らが不必要だと感じれば、それは不必要なものとなる。特に私は社会に必要な存在でありたいと思うわけでもないし、世間の意向を気にするような生き方はしてこなかった。しかし、これから一人でお金を稼ぎ、生活をしていくためには、何かしらの貢献を社会にしなければならない。社会にとって必要な人間でいなくては生きていくことは出来ない。私は今のところ社会に必要な人間ではないし、上の設問に対する回答を持ち得ない以上、どうやら必要となる見込みもないらしい。

それに対して別に悲観しているわけではなく、ただそのような可能性を受け入れているに過ぎない。しかし、それなら私はどのように生きていけばいいのだろう。どこに行けばいいのだろう。それなりに勉強も出来て、優等生コースを歩んできたはずなのに。ここにきて急に私が社会に対して価値を持たないことを示されてしまった。今の今まで私はそれに気づけなかった。

就職活動の解禁までもう間もなくだ。私は何をすればいいのだろう。どうしたらこの短期間で、上の設問に対しての答えを持つような、社会に必要とされる人間になれるのだろうか。

反省ではないけれど、ここ二ヶ月程での気づき

心がとても穏やかです。

こう穏やかなときにブログを書こうという気には普段ならないし、いつも荒んでどうしようもない時に、心のはけ口として何かを書いたり、音声ツイートをしたりするのですけれど、今日はそういうわけではありません。とても良い心地でブログを書くことが出来ています。

なんでこう穏やかなのかというと、たぶん今日はバイトもなくゆっくりと自分のための一日を送ることが出来たからなんじゃないかと思います。

最近、というかここ二ヶ月くらいはとてもじゃないけど穏やかな生活はしていませんでした。執着し、そのために自分をすり減らせるだけすり減らしていました。

私はそれこそが愛であると思っていました。それは今もそうかもしれませんが。

自分のことをすり減らしてもよいと思えること、自分という自分を削ってでも相手の為になろうと出来ること、日常のすべての選択上の天秤においていつもある相手を優先することが出来ること、そうしてそれを心から良いと思えること、それが愛だと思っていたし、今でもそう思います。

しかし、そうすれば自分の心がすり減ることは自明の理です。正確に言うのであれば、そのような行動をとったときに自分が、それが明確な言葉として整理できていないとしても、真に心のうちに求めているものが手に入らなければすり減っていくと思います。

私は今まですり減るほどの自分を持っていると思ってはいませんでした。趣味と言えるものも特にはないし、ほとんどの物事が好き、裏返せば特別拘泥するものは私にはないと思っていました。そうして今でも明快にコレだ!というようなものはありません。しかし私も人間で、少なからず自身の心の指向性というものは存在するようでした。この二ヶ月間、私は自身の心の指向性というものを無いものとして扱い、一人の人を優先させてきました。今でもその選択がその当時において間違いではなかったように思います。そうして感じることのできた幸福感のようなものもまた実際にあったものであり、それを蔑ろにすることは出来ないと思います。しかし、そうすることは自身の生活を振り返ったときに全体として幸福であるとは言えなかったのではないかと思います。自分自身をすり減らすことで日常の選択をしているという事実を無視して、それを無いものとして扱ってきました。ある人を優先させることが自分にとっての完全な幸福であると信じていました。しかし、それは盲目的であったと今では思います。私は今でも私が真に何を求めているのかがわかりません。そうしてそのようなものは言葉として現れるものではないのかもしれません。しかし、少なくとも、私は私自身をすり減らしても求めているものは得られていなかったようです。もしくは、私自身が求めることというのは他者への愛のみで補われるものではなく、自身の指向性も含めなくてはならないのかもしれません。私が信じる究極的な愛と私自身の幸福というのは相反するものなのかもしれません。

あるきっかけがあり、私は私自身が信じる愛を体現することを意識的に止めました。私からそのようなものを受け取ることが必ずしも相手の為になるとは思えなかったからです。そうして徐々に日常の選択において自分自身を優先させるようにしていきました。見惚れた服を買ってみたり、煙草を気の向くままに吸ったり、違う物事について考える時間を意識的に設けたり。そうすることで相手との適切な付き合い方に戻そうとしました。結果としてはそのようになれたと思うし、また副産物として自分自身の精神の安寧も手に入れることが出来たと思っています。変に何かに固執することを止め、今までやってきたような気の向くままの生活を送ることは私の幸福にとっても良いものであるようだという事がわかりました。

今はまだ、金銭的に以前の執着のつけが回っているので、前のように自由に身動きをとることは出来ません。働いてつけをなんとかしなくてはならないし、所持しているお金もわずかなものです。しかし、それでも心は以前よりも穏やかです。自身の周りの人々、自然、芸術そのような様々なものに心を向ける事が出来ますし、それを楽しむことが出来ます。以前の二か月間であればそのようなものの良さを分かりつつも、それらを蹴り一人の人を優先させて来ましたが、今ではそのようなこともなく純粋にそれらを楽しめます。自分が蔑ろにしてきた物の良さを味わえているような気がします。

私は人を愛することで幸福になることは出来ないのかもしれないと思うと少し寂しい気はします。私がこの二ヶ月のように人に執着することなんて今までなかったし、そうできるだけの相手というのもそうそういないように思います。けれども、私はこれからもっと自分の為に何かをすることが楽しみです。一人でしたいと思ったその時に、全く自分自身のこと以外を考えずに散歩をしたりお酒を飲みに行ったり旅行をしたりすることが楽しみです。

服装について

最近生まれて初めて服装に興味を持つようになった。いや、服装に興味が出たと言うよりかはファッションに興味が出たと言う方が正しいかもしれない。

 

今まで私は服装を考えるときに、その見え方という事に関して殊更に考えたことはなかった。小学生から中学生にかけて、周りの人達が異性を意識して、また学校の中で“かっこいい”と言われる立場になるために服装に興味を持ち始めた時も、私はてんで興味を持たなかった。私が兼ねてから服装に求めてきたことは機能性、すなわち動きやすさとそれが身体をどれだけ暖めるかということだけだった。もちろん、いざ服を買うとなった時には、機能性と価格を考えた上で自分の好みのものを選んでいた。しかし、その嗜好はあくまで優先度の低いもので、選ばなくてはならないから選んだまでのことだった。時には、周りの人にならって見え方を意識しようと試みたことはあるけれど、やはり私の中では優先度が低くうまく考える事ができなかった。そうして、そのような方針は20歳になる最近まであまり変わらなかった。

私がそのようなポリシーを持っていたのは、偽ることえの嫌悪感ゆえであった。服装というのは、言ってしまえばただの布だ。それを着ているのが私であれ、服装そのものが私ではないと思っていた。だから、服装を気にするということは意図的に、魅せるために“自分”という虚像を作り上げる行為のように思えた。その行為によって現れるのは自分ではない何かであり、私はそのように人に見られたくなかった。私は「本当の私」を見て欲しかった。だからこそ、自分の生理的欲求に叶うような服装をしたし、なるべく安い金額で済ませた。

 

しかし、最近になってようやく「本当の私」というものなど無いのだと思うようになった。また、私の行う行動、見た目、その全てが「本当の私」であるように思うようになった。そうして、それは他人にも、時には自分にも分かり得るものではないと思うようになった。私がいくら自分の生理的欲求に叶うような服装をしたところで、そんなものは私を見た他の誰にも伝わらないし、またそれとは別に私の服装に対して様々なイメージを持たれるであろうことを知った。服装は決して確固たる一つの「私」を表すものでは無い。人によって持たれる印象は変わるし、私としてもどのような印象を持たれれば正解なのかという事もわからない。

 

私はこのような服装への諦めを通じて、ファッションに興味を持った。つまり、ファッションというのは“本当の自分”を表すものではなく、イメージに対して自分を合わせようとする行為なのだと考えるようになった。例えばファッション誌を開けば、ファッションの様々なジャンルが載っていて、それがどのような印象をもたらすのかということを専門家が説明している。正確な文言を覚えているわけではないが、「デートの時に着るならコレ」「これを着て大人な女性に」と言った具合に、その服装が他人にどのように見られるのかという事が書いてある。つまり、それと同じ服装をすれば、大抵の場合において書いてあるような特定のイメージが得られるという事だろう。今までは、そのような特定の何かに自分を当てはめる事を嫌ってきた。けれども、服装なんかで相手が自分に抱くイメージを操作できるのであればそれは案外面白いものではないのか。どうせ、自分を表す事ができないのであれば、その場に合わせて特定の何かになるほうが、よりスムーズに周りの物事が進むのではないか。そのように思うようになった。

 

かと言って、十分なお金があるわけではないので、図書館でファッション誌を流し読むくらいのことしかしてませんが。お金ができたら、様々な自分の虚像を作れるのか試してみたいなあと思います。

五分で発露した酔っ払いの戯言。

暗闇のなか、煙草を吸っていた。

私は暗闇が好きだ。自分の輪郭がなくなり、自分の体がなくなり、周りの世界の身体という身体がなくなる。そのときに初めて“私”を感じれる。この世界に何も無くなり全てが無になる。そこにおいて“私”は発現する。感覚というものを通して世界を観ている私を感じれる。

しかし今日は暗闇に落ちることが出来なかった。何かの灯りが暗闇のなか点滅していた。私は外を確認したけれど、どこにもその光源は見当たらない。ただ、目の前が点滅していた。

点滅の一瞬一瞬に見えるサントリーウイスキーの角瓶、やかん、ドリップ用のコーヒー粉の入ったボトル、蜂蜜。その全てが刹那的に私の網膜に焼き付く。私は何故だか不安な気持ちになった。刹那的に見える世界。私が、私の身体がこの景色と同じくして在るということ。それが私を不安にさせた。

私はこの世界に在るようにして、無いのだ。一瞬の暗闇はこの世界を見る私を認識させる。同時に一瞬の灯によって私の身体がこの世界に在る事を認識させる。けれども次の瞬間には私の身体は無い。私という超自然的存在。私というこの世には無い存在。何とも繋がれない存在。

繋がりがないから不安になるのだ。身体がある限り、言葉がある限り、私は他者と、この世界と繋がってると錯覚する。やかんは私に訴える。蜂蜜は私に訴える。「お前はこの世界に居るんだぞ。けれどもお前は孤独なんだ。誰とも繋がってはいやしない。」そう訴える。

けれども、私という存在はこの世界と、感性によって認識されるこの世界と、繋がり合うことはできないのだ。部外者。この世界の部外者。私はこの世界にはいなくて、感覚を通してこの世界を観ているのだ。アニメのような映画のような、そんな漠然としたものを観ているのだ。観ているだけ。私は繋がる事は出来ない。私はこの世界を観る事は出来ても、一体化する事は出来ない。

そんなことはわかっているのに、わかっているのに、暗闇の中の点滅は私を不安にさせる。「繋がっていると錯覚しているだろう。違うんだ。お前はこの世界にはいない。一つ離れた次元で観ているだけだ。心を通わせていると思う人も居るだろうが、そんなものは幻想だ。お前は独りだ。言葉があれども、景色があれども、お前は観ているに過ぎない。この世界、感覚を通じて感じる世界を観ているだけだ。お前は孤独だ。誰とも繋がらない。誰もお前をわかってくれはしない。お前は誰もわからない。誰もお前のことなんか認識しない。理解なんてしない。本当の意味においてわからない。わかり合えない。」暗闇の中の点滅はそうやって語りかけてくる。

だからこそ不安を感じる。

私は誰とも繋がれないのか。私は孤独なのか。一人ぼっちで何十年とも言える歳月を過ごすのか。それが人生というものなのか。人生というのはそんなに虚しく悲しいものなのか。私が期待し過ぎているだけなのか。

誰にもそれが正しいとは言うこともできないし、間違っていると言うこともできない。全く個人的な問題なのだ。一般的ではない問題なのだ。

ナーガルジュナだったか、誰かが言った。「渇欲こそが苦しみの元だ」そんな事を言った。そうなのか?本当にそうなのか?私は期待してはいけないのか?その期待こそが私の苦しみを生むのか?哀しさを、虚しさを生むのか?求めずして得たものが幸せなのか?

灯は私に訴えかけてくる。「そんな世界で、そんな世界の在り方で、孤独なお前は幸福なのか?」わからない。わかろうともしない。私には「幸福」と言う概念すらもわからない。1000万の収入があって、女を抱けたら幸せなのか?そこにおいて、私は幸せの極地を経験して、心から「今なら死んでもいい」と思えるのか?幸福とはそんな陳腐なものなのか?

ヘッドホンから『Fly me to the moon』が流れてくる。

Fill my heart with song
Let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, in other words
I love you

これが愛なのか?愛こそが私を繋ぐのか?I love youとは何だ?この言葉において、この言葉を発露することで他者と繋がることが出来るのか?言葉とはそんな大層なものなのか?

この世には今しかない。過去も未来も存在しない。今自分が何を思うのか。

自分は過去にも未来にも生きられない。

未来のことなぞわからない。計画すれば未来が思うように行くほど自分の演算能力は高くない。

今この瞬間に死ぬかもしれない。

殺人鬼が家に来るかもしれない。突然何かの発作が来て即死するかもしれない。

そんなすべての死の可能性を否定できない。

そんな完璧なバランスで自分の生が保たれている。

しかし、私は未来を考えることが出来る。

自分の言動、自分の空想、全てに未来を考えることが出来る。

私は苦しみを味わいたくない。苦しみを味わう事が怖い。

だから未来を考える。リスクヘッジをする。

自分の幸福を未来に置こうとする。

それでも私は死の可能性を否定できない。

いつでも死ぬかもしれない。

未来の幸福の為に何かを積み上げることに何の意味があろうか。

私には確証がない。

積み上げたところで、その幸福を勝ち取るという確証がない。

今この瞬間に死ぬかもしれない。

私は今にしか存在しない。

過去の私はただの記憶。

未来の私はただの可能性。

私は死を感じる生き方をしていない。

全てが安全安心。温室育ち。

だからこそいつも自分の後ろに死がついてきていることを忘れてしまう。

しかし大事なのは今だ。

今自分が何をしたいか。今自分が何を嫌うのか。

今しか存在しない。未来も過去も存在しない。

今は今しかない。二度と来ない。

 

 全てが初めて

今日がもう来ないことを知ったのも初めて

林檎飴が紅い

そして私は生きている!

今日現在を歩いているんだ

何もない私だって融け合っているのさ

嗚呼

東京事変:御祭騒ぎ)

 

スター

昨日コンテンツの家畜について書いた。今の自分はコンテンツの家畜だ。誰かに楽しませてもらっているだけの成人男性Aだ。世界は私を今泉耕祐と認識しない。成人男性Aだ。世界に、世間に何も生産していない、有象無象の中の一つだ。

スターになりたい。有象無象ではない、コンテンツを生産する側へ。周りの人々を魅了する側へ。世界に私を今泉耕祐として認めさせてやりたい。私は成人男性Aではないと胸を張って言いたい。

思えば幼少期から。目立ちたがり屋だった。いつでもそう。選択に迷ったとき、何か自由を与えられたとき。それは作文でもなんでも。他の人と一緒になることが怖かった。自分の色を出したかった。有象無象のクラスメートAになりたくなかった。

それは私にとって死を意味することだ。他人から私を私自身、今泉耕祐として認識されない。ただのクラスメート、ただの友人、ただの学校で見かける人。モブA。そんな世界に私はいない。そこにいるのは私の影。肩書だけ。生に満ち溢れた今泉耕祐は誰の目にも映らない。

だから昔から私は目立ちたがり屋であった。他人に今泉耕祐を認識させる為に逆張りをしたり、目立ちにいったりしていた。しかし、それを極められなかった。いつでも頭の片隅にあるのはリスクヘッジだった。今泉耕祐を認識させたい、けれども嫌われるのも怖い。たといそれがモブAでも、他人の頭からその私の配役が抜け落ちてしまう事が怖かった。世界から居場所がなくなることが怖いあまりに、自分の死を認めてきた。

昨日、自分がコンテンツの奴隷であることに気づいたとき、そのことを自覚した。恐怖が自分を殺していた。私はコンテンツ奴隷A。コンテンツを発信し、人々を魅了する人には名前がある。その個人として世界に認識される。生を認められる。

今の私には何もない。20年間で世界に誇れるような何事も築いてこなかった。とはいえ、自分を殺したままでいいのか。世界に自分の存在を認められなくていいのか。成人男性Aでいいのか。

違うだろ。どうせ儚い命。瞬きしてれば棺桶の中。苦心をなめたっていいじゃないか。スターになれなければ世界からおさらばしてしまえばいいだけじゃないか。どうせ死んでいるのと相違ないんだから。

生きる。世界に今泉耕祐を認めさせてやる。