雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

五分で発露した酔っ払いの戯言。

暗闇のなか、煙草を吸っていた。

私は暗闇が好きだ。自分の輪郭がなくなり、自分の体がなくなり、周りの世界の身体という身体がなくなる。そのときに初めて“私”を感じれる。この世界に何も無くなり全てが無になる。そこにおいて“私”は発現する。感覚というものを通して世界を観ている私を感じれる。

しかし今日は暗闇に落ちることが出来なかった。何かの灯りが暗闇のなか点滅していた。私は外を確認したけれど、どこにもその光源は見当たらない。ただ、目の前が点滅していた。

点滅の一瞬一瞬に見えるサントリーウイスキーの角瓶、やかん、ドリップ用のコーヒー粉の入ったボトル、蜂蜜。その全てが刹那的に私の網膜に焼き付く。私は何故だか不安な気持ちになった。刹那的に見える世界。私が、私の身体がこの景色と同じくして在るということ。それが私を不安にさせた。

私はこの世界に在るようにして、無いのだ。一瞬の暗闇はこの世界を見る私を認識させる。同時に一瞬の灯によって私の身体がこの世界に在る事を認識させる。けれども次の瞬間には私の身体は無い。私という超自然的存在。私というこの世には無い存在。何とも繋がれない存在。

繋がりがないから不安になるのだ。身体がある限り、言葉がある限り、私は他者と、この世界と繋がってると錯覚する。やかんは私に訴える。蜂蜜は私に訴える。「お前はこの世界に居るんだぞ。けれどもお前は孤独なんだ。誰とも繋がってはいやしない。」そう訴える。

けれども、私という存在はこの世界と、感性によって認識されるこの世界と、繋がり合うことはできないのだ。部外者。この世界の部外者。私はこの世界にはいなくて、感覚を通してこの世界を観ているのだ。アニメのような映画のような、そんな漠然としたものを観ているのだ。観ているだけ。私は繋がる事は出来ない。私はこの世界を観る事は出来ても、一体化する事は出来ない。

そんなことはわかっているのに、わかっているのに、暗闇の中の点滅は私を不安にさせる。「繋がっていると錯覚しているだろう。違うんだ。お前はこの世界にはいない。一つ離れた次元で観ているだけだ。心を通わせていると思う人も居るだろうが、そんなものは幻想だ。お前は独りだ。言葉があれども、景色があれども、お前は観ているに過ぎない。この世界、感覚を通じて感じる世界を観ているだけだ。お前は孤独だ。誰とも繋がらない。誰もお前をわかってくれはしない。お前は誰もわからない。誰もお前のことなんか認識しない。理解なんてしない。本当の意味においてわからない。わかり合えない。」暗闇の中の点滅はそうやって語りかけてくる。

だからこそ不安を感じる。

私は誰とも繋がれないのか。私は孤独なのか。一人ぼっちで何十年とも言える歳月を過ごすのか。それが人生というものなのか。人生というのはそんなに虚しく悲しいものなのか。私が期待し過ぎているだけなのか。

誰にもそれが正しいとは言うこともできないし、間違っていると言うこともできない。全く個人的な問題なのだ。一般的ではない問題なのだ。

ナーガルジュナだったか、誰かが言った。「渇欲こそが苦しみの元だ」そんな事を言った。そうなのか?本当にそうなのか?私は期待してはいけないのか?その期待こそが私の苦しみを生むのか?哀しさを、虚しさを生むのか?求めずして得たものが幸せなのか?

灯は私に訴えかけてくる。「そんな世界で、そんな世界の在り方で、孤独なお前は幸福なのか?」わからない。わかろうともしない。私には「幸福」と言う概念すらもわからない。1000万の収入があって、女を抱けたら幸せなのか?そこにおいて、私は幸せの極地を経験して、心から「今なら死んでもいい」と思えるのか?幸福とはそんな陳腐なものなのか?

ヘッドホンから『Fly me to the moon』が流れてくる。

Fill my heart with song
Let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, in other words
I love you

これが愛なのか?愛こそが私を繋ぐのか?I love youとは何だ?この言葉において、この言葉を発露することで他者と繋がることが出来るのか?言葉とはそんな大層なものなのか?