雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

ここではない、どこかへ

本日は休日だったので家の近くにある薬師池公園という所に紫陽花を見に行きました。

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紫陽花は本当に綺麗な花ですね。私は10代のころから紫陽花が好きなんですね。紫陽花は同じ種でも土壌によって色が変わるし、同じ株の花でも微妙に色が違っていたりして。そして花も一つではなく小さい花がいくつも集まって一つの花になる。なので近くと遠くでまた見え方が全然違う。それもまた好きな理由です。紫陽花にはいくつか花言葉があるんですけれど、その中に「無常」というのがあります。同じように育てても色が同じものにはならなかったり、梅雨が明けて雨が降らなくなればすぐに枯れていく。そんな花に対して「無常」という言葉はとても的確だなぁと思うばかりです。

 

今日は自転車で公園まで行ったのですが、帰る時間がちょうど地元の小中学生の下校時刻と重なりました。友達とアホな話をして大爆笑している男子小学生たち。近くに座るところがあるのにも関わらず、話に夢中でそんなことが全く頭にない女子中学生たち。川に入った後なのか、河原で上半身裸で寝っ転がっている男子中学生たち。見てるこっちが恥ずかしくなってしまうような中学生の男女四人組。そんな彼らを横目に自転車を漕ぎました。

彼らは今に夢中でした。これから先にあるであろう受験や就職。そして死。そんな未来のことは端から頭になく、今の楽しさを感じそれに喜んでいるように見えました。

 

GLAYの「ここではない、どこかへ」という曲の中の一節にこのようなものがあります。

ひとつひとつ 仕組み(もの)を知れば 子どものままでは生きてゆけないと 

変わりゆく他人(ひと)を遠くに見ては 時代の息吹に身をさらす

ここではないどこかへと 胸を焦がすよ

無邪気な季節(とき)を過ぎ 今誰もが戦士達

 

歌詞にもある通り、子どものままでは生きてゆけません。人によって度合いは違えど、例外なく私達は世界の仕組みを知っていきます。共同体で生きることを避けることのできない現代には、モラル、マナーなど様々な拘束があり、それを知っていきます。そうして「無邪気な季節を過ぎ」、「戦士」になっていくように思います。

無邪気である時なら「今」の楽しさに身を任せて生きることが出来るのですが、「戦士」になるにつれ、自分の生、未来、世の中のルール、様々なものに責任が生まれ、「今」の楽しさだけに目を向けることが出来なくなるように思います。

 

だからこそ、今日見た小中学生はとても輝かしく見えました。私はもうあのようには生きられない。様々なことを学び、「今」を楽しむ感性はもう忘れてしまった。

 

今の私は過去からも未来から逃れられない。生。死。私はどこから来てどこへ向かっているのか。前にもブログに書いていたら恐縮ですが、ウマル=ハイヤームの詩にこのようなものがあります。

われらが来たり行ったりするこの世の中、

それはおしまいもなし、はじめもなかった。

答えようとて誰にはっきり答えられよう──

 われらはどこから来てどこへ行くやら?

「戦士」となった私はもうこの問から逃れられません。生前とは何のことで、私のこの魂はなぜ存在し、どこへ向かっていくのか。私はもう「今」をそのまま楽しめない。自分の社会、待ち受ける死。それらに頭を毒されている。

 

そんななかから逃れたい。「今」を楽しめる彼らの世界へ。社会も未来も過去もない世界へ行きたい。

 

言葉がまとまらないのでこの辺で。つたない思考の掃き溜めですね...