雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

家畜

今日の夜は椎名林檎の曲とエラ・フィッツジェラルドの曲を延々と流していた。椎名林檎は兼ねてから好きだが、エラ・フィッツジェラルドは今日受けた講義がBlack Musicのことだったので試しに聴いてみた。久しぶりに自分の心が興奮するのを感じた。普段ふさぎ込んでいる感受性が久しぶりに息を吹き返した。

とても良い気分で眠りにつけそうだと思ったのだが、そうはいかなかった。

彼女らの極上のパフォーマンスを浴びて、自分の小ささが今までより一層感じられてしまった。それというのは私は「享受するもの」で彼女らは「作るもの」を明確に感じてしまったという事だ。

彼女らは作る人だ。思いやアイデアを形にする表現者だ。絶えず、他人に享楽を供給する側だ。

しかし、私はどうだろう。音楽を聴いた後「はぁ~良かった。最高。」となるが、私自身からは何も湧き出ていない。私は他人に何も供給していない。そんなコンテンツ力を持っていない。ただ彼女に供給されるコンテンツをただ口を開けて待っているだけだ。まるで家畜。彼女らに飼いならされているようにすら思える。これは別に音楽に限った話ではない。プロ野球を見ている時も、著名人のTwitterを見ている時も、アダルトビデオを見ているときも、アニメを観ている時も。全ての時で自分は家畜だ。何も生み出さない。餌を待つだけの家畜。自分は家畜。家畜。家畜。家畜。

もう20歳。私より年が下の人も、すでにしてコンテンツの家畜を踏みつぶす側に回っている人もいる。焦り。自分はこのままコンテンツの家畜として人生を終えるのか?光陰矢の如し、どうせ次瞬きしたら棺桶の中のようなもんだろう。そんな有象無象と化した人生に何がある。ただでさえやさしさもないし捻くれてしまっているこの私になんの意味がある。

もうここ数年ずっとつまらない。楽しいことはあれど、総じていうとつまらない。勉強にも気は向かないし、人間関係に精を出すこともおっくう。

もし、私がコンテンツを発信する立場になったら、この人生は楽しくなるのだろうか。他人に影響を与え、感動させ、共感させ、尊敬させ。そんな人生に成ったら楽しいのだろうか。そんなことはわからないけれど、ともかくこう時間を無駄にしているわけにはいかないのではないか。自分の感性を、表現力を延ばさなくてはコンテンツの家畜を踏みつぶす景色は見えないのではないか。

 

という、我の押し売りでした。微妙に寝れなくて興奮状態で書いているけれど、自分の中にこのような気持ちがあることも真なのでしょう。

ここではない、どこかへ

本日は休日だったので家の近くにある薬師池公園という所に紫陽花を見に行きました。

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紫陽花は本当に綺麗な花ですね。私は10代のころから紫陽花が好きなんですね。紫陽花は同じ種でも土壌によって色が変わるし、同じ株の花でも微妙に色が違っていたりして。そして花も一つではなく小さい花がいくつも集まって一つの花になる。なので近くと遠くでまた見え方が全然違う。それもまた好きな理由です。紫陽花にはいくつか花言葉があるんですけれど、その中に「無常」というのがあります。同じように育てても色が同じものにはならなかったり、梅雨が明けて雨が降らなくなればすぐに枯れていく。そんな花に対して「無常」という言葉はとても的確だなぁと思うばかりです。

 

今日は自転車で公園まで行ったのですが、帰る時間がちょうど地元の小中学生の下校時刻と重なりました。友達とアホな話をして大爆笑している男子小学生たち。近くに座るところがあるのにも関わらず、話に夢中でそんなことが全く頭にない女子中学生たち。川に入った後なのか、河原で上半身裸で寝っ転がっている男子中学生たち。見てるこっちが恥ずかしくなってしまうような中学生の男女四人組。そんな彼らを横目に自転車を漕ぎました。

彼らは今に夢中でした。これから先にあるであろう受験や就職。そして死。そんな未来のことは端から頭になく、今の楽しさを感じそれに喜んでいるように見えました。

 

GLAYの「ここではない、どこかへ」という曲の中の一節にこのようなものがあります。

ひとつひとつ 仕組み(もの)を知れば 子どものままでは生きてゆけないと 

変わりゆく他人(ひと)を遠くに見ては 時代の息吹に身をさらす

ここではないどこかへと 胸を焦がすよ

無邪気な季節(とき)を過ぎ 今誰もが戦士達

 

歌詞にもある通り、子どものままでは生きてゆけません。人によって度合いは違えど、例外なく私達は世界の仕組みを知っていきます。共同体で生きることを避けることのできない現代には、モラル、マナーなど様々な拘束があり、それを知っていきます。そうして「無邪気な季節を過ぎ」、「戦士」になっていくように思います。

無邪気である時なら「今」の楽しさに身を任せて生きることが出来るのですが、「戦士」になるにつれ、自分の生、未来、世の中のルール、様々なものに責任が生まれ、「今」の楽しさだけに目を向けることが出来なくなるように思います。

 

だからこそ、今日見た小中学生はとても輝かしく見えました。私はもうあのようには生きられない。様々なことを学び、「今」を楽しむ感性はもう忘れてしまった。

 

今の私は過去からも未来から逃れられない。生。死。私はどこから来てどこへ向かっているのか。前にもブログに書いていたら恐縮ですが、ウマル=ハイヤームの詩にこのようなものがあります。

われらが来たり行ったりするこの世の中、

それはおしまいもなし、はじめもなかった。

答えようとて誰にはっきり答えられよう──

 われらはどこから来てどこへ行くやら?

「戦士」となった私はもうこの問から逃れられません。生前とは何のことで、私のこの魂はなぜ存在し、どこへ向かっていくのか。私はもう「今」をそのまま楽しめない。自分の社会、待ち受ける死。それらに頭を毒されている。

 

そんななかから逃れたい。「今」を楽しめる彼らの世界へ。社会も未来も過去もない世界へ行きたい。

 

言葉がまとまらないのでこの辺で。つたない思考の掃き溜めですね...

男女関係について

そういえば最近、誰か芸能人が不倫して話題になりましたね。

多目的トイレで事を為していたとかいうところに、狂気が垣間見えて人間面白いなあと思います。彼のような芸能界で成功していて支持もあるような人で、お金もあるのに、なぜか多目的トイレ。女性も女性で冷静になれば多目的トイレの異常さに気づくだろうに、そこへ赴いてしまう。まあ、そんな狂った状況に興奮していたのか知りませんが、つくづく異性関係というのは人を惑わしますね。

 

これは私の個人的な意見ですけれど、そもそも男女の関係って気が狂ってなきゃ成立しないんじゃないかと思います。

例えば、実態はどうか知りませんが少なくとも創作物の中では、プロポーズの際に「一生幸せにするから」とか言いますね。まあ、このような言葉に悪い印象を受ける人はあまりいないのではないでしょうか。関係が長期であればあるほど”良い”とされていると思いますし、やっぱり「一生」という言葉はロマンチックですよね。しかし、私はこのように、一生のことを誓ってしまうのは極めて無責任だと思うんですね。

「飽き」のない人間というのはいないと思います。食べ物も好きなものこそあれ、毎日同じものは食べない。服も好きな系統のものはあれ、毎日同じものをきるわけではない。音楽も好きな歌こそあれど、ずっと一つの曲を聴くわけではない。もちろん長期間継続して好きなものもあるでしょうが、どんなに好きなものでさえたまに息抜きが必要ではないかと思います。息抜きして、戻ってくることでまた楽しめる。また「隣の芝生は青く見える」ともよく言いますが、それも自分の芝生に夢中じゃなくなるから起こるわけですね。自分の周囲の物事だけでは飽き足らず、自分とは違う環境の人を見ることで羨望の情が生まれてくるのではないかと思います。

私達は日常的に様々なことにおいて飽きてハマって飽きてを繰り返しているのに、どうしてか「結婚」など男女関係の話になった途端に「一生」を誓ってしまう。これ本当に阿呆らしいと思うんですよ。未来のことなんてただでさえわからないし、対象を異性以外のものにして考えた時に「飽き」っていうことは誰もが経験しているように思えるのに、それでも対象が異性になればそんなものは頭から吹っ飛んでしまう。要は結婚に際し一生を誓うのって「私は一生晩飯に欠かさず次郎系ラーメンを食います」って言いきれるのかどうかっていうのと同じことだと思うんです。もちろん次郎系ラーメンは美味しいのですが、毎日次郎系ラーメンを食べる為に他の食事は我慢しなくてはいけないし、他のものも食べたいなあと思う事だってあるかもしれない。最初は「毎日食えて幸せぇ」って思うかもしれませんが、いつしか飽きが来ると思います。それなのに、なぜに男女関係の話になったときだけ「私は絶対飽きないであなたを愛し続けることが出来る」とどうして言えましょうか。どうしてそんな確証もない自信を言葉にし、聞いた側もそれを信じてしまうのでしょうか。

 

男女の関係なんてもとより狂っていなきゃ成立しないと思います。圧倒的な根拠なき自信に支えられているものだと思ってしまいます。

留学総括

気づけば4月5日。コロナウイルスの蔓延で急遽帰国してから10日ほどになる。

帰国するときは名残惜しいと感じたアンカラの景色は、今は空っぽの記憶としてしか残っていない。その香りも、トルコ語の喧噪も、何も思い出せない。記憶を思い起こしても、知らない人が描いた絵画のような、自分の来たことのない街のようにしか思えない。目が覚めたと同時に夢の記憶が薄れるように、トルコでの記憶は飛行機に乗ったその瞬間に私の頭から抜け落ちてしまったようだ。私の留学は夢だったのか。

記憶というのは何とも儚い。どんなに心を打った経験も、「今」が終われば無機質な言葉として形骸化していく。頭の中に残るものというのはいつでも抜け殻だ。

昨年9月9日に私は日本を発った。それから今年の3月25日までトルコの首都、アンカラ一留学生として日々過ごしていた。自堕落な生活だった。週に1~2コマだけ大学の講義をうけていた。その他の時間は何をしていたのか思い出せない。そんな生活だった。

全く努力というものをしなかった、出来なかった。歯を食いしばるような苦しみを味わう事はなかった。日本に帰っても、何歳になってもその匂いを、味を思い出せるような喜びも快楽もなかった。今では何も思い出せない。何が自分の記憶に焼き付いているのかもわからない。

私にとってトルコという国は刺激が足りなかったのか?そうではないように思う。それはトルコという国に限った話ではなく、この世界がそういうものなのだ。自分のどの記憶も、出来事の情報としてしか存在していない。匂いも味も音も空気も、何も思い出せない。

私は留学というものに無意識的に期待をしていたのだ。何にもない私の頭を、記憶を埋めてくれる何かがあるのではないかと。脳裏に焼き付くような何かがあるのではないかと。しかし、そんな期待が叶うことは無かった。住み慣れた日本を出たところで、そこも住み慣れた地球でしかなかった。

私の記憶力が欠如しているのか。この世界がつまらないのか。はたまた、「脳裏に焼き付いているような記憶を他人は持っている」というそのこと自体が幻想に過ぎないのか。

 

これから先、自分は何かを記憶に残すことが出来るのだろうか。忘れることのできないような何かを見つけることは出来るのだろうか。

日本で見つけられなかったそれは、トルコでも見つからなかった。

 

4月6日、追記

当初より『とるこぶろぐ』として、留学中にあった出来事やそれについて考えたことを書いていましたが、留学が終わってからも書き続けたいと思います。それに伴い、ブログ名を『雑記』としました。拙い文章ですがこれからも読んでいただけると幸いです。

コロナウイルスと差別

先週ブルサに行き人生初のスノーボードをしました。運動神経があまり良くない(幼少期よりマシにはなったのですけれど)ので難しかったのですけれど、なんだかんだ楽しかったです。スノーボードをする事でついにウェイ系大学生の仲間入りを果たしたわけなのですけれども、正直トルコのゲレンデは色々と使い勝手が悪いし、(トルコの物価を考えて)めちゃめちゃ金かかるので中々うんざりしてしまいました。また、気温もマイナス10度を下回り、今までの人生で1番寒い思いをしました。おかげで身体の強さには自信のある僕も風邪をひき、その後2日間は授業に行かず寝込んでゲームをしてました。トルコのゲレンデはもういいかなぁ。日本帰ったらスノボ、やりたいです。

 

 

 


ブルサでスノボをした帰り、ロープウェイで1組の家族連れと同席することになった。最初は特に何も気づかなかったのだが、乗っている時に彼らは口を押さえていた。中国人と同じ顔をしている僕たちを見て、密閉空間でのコロナウイルスの感染を警戒して口を押さえたのだろう。ロープーウェイでは一か所乗り継ぎがあるのだが、そこではその家族はあからさまに僕たちを避けて、違うロープウェイに乗り込んでいた。

 


彼らのそういった行動を見た時、悲しくもあったし、「はぁ?こちとら昨年の9月からずっとトルコにいるし日本人だわボケ」って思う気持ちもあったけれど、それでも彼らの行動も理解はできた。

いくら失礼な行為(彼らがあの行為を失礼と認識してるかどうかは定かでは無いが)をして、僕たちに無礼な振る舞いをしたところで、彼らの生活になんの害も及ぼさない。あくまで僕たちと彼らは全く関係のない人。そんな人達のことよりも、自分達の感染を防ぐ方が大事だというその彼らの心理はとても自然なものだろう。

 


しかし、再度言うが、本当に悲しかった。僕たちのことを見るあの家族の目。隠そうともしない無礼な行為。そして、親に言われたからか、差別意識がないであろう子供も親と同じ行為をし、子供からも差別を受けた。そう、いくら自然な行為とはいえ、これは明らかな差別だった。

 

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先日Twitterでこのようなツイートを見た。他にも、「これは差別ではない。リスク回避だ。」というようなリプライが多くみられた。

僕はこの元のツイートをした人を知るわけではないし、彼女を擁護するつもりはないが、あの行為をただの「リスク回避」だと、全く差別的行為ではないとするのは違うと思う。

「差別ではない。リスク回避だ。」という奴らは、自分がいるだけで、何もしていないのに、無条件に避けられる事の悲しみを想像できていない。マスクつけていた中国人達が本当は日本在住で、日本人と同じ感覚でマスクをつけてただけだったとしたら。彼らがコロナウイルス陰性の診断を受けた上で日本に来ていたら。そもそも中国人じゃなかったら。

「リスク回避」ということは間違っていない。その通りだ。けれども、それはあくまで「差別的」なものだ。彼らのいう「リスク回避」はその行為を受ける側からしたら「無条件な冷遇」に他ならない。

僕はブログに何度も書いている気がするけれど、人間は自己の加害性についてはとことん鈍感だ。自分が受ける行為については敏感だが、相手が自分の行為を受け、それに何を思うかということは想像することが難しい。

僕は別に上で言う「リスク回避」それ自体を否定するわけではない。それをするのは自然なことだし、自分だってコロナウイルスにはかかりたくない。功利的正しさがあると思う。けれども、それがあくまで「差別的」であることは自覚しなくてはいけない。自分の行為が相手を悲しませてることを知らなくてはいけない。知ったその上で、「リスク回避」をとるのか、それともとらないのか、という事を自分の意思で判断しなければならない。なぜなら、自分の加害性に敏感になれないと言うことは、無意識に他人を傷つける可能性が高いということだから。

 

ツイート主の斉藤あつこという人が「ウイルスの蔓延と同じくらい怖いのが、差別の蔓延」と綴ってツイートを締めているが、差別の蔓延とは、単に「リスク回避」から生まれるのではなく、「差別的なリスク回避」である事を自覚できない人から生まれるのではないかと僕は思います。

 

 

 

いつも自分の内面に着目した文章を書いてるので、珍しく自分の外のことについて書いてみました。意外と書くために使う脳が違うのか、書きにくいもんですね。

愛情表現について

昨日は二月三日、節分です。日本では恵方巻を食べたり豆をまいたりしますね。僕も大豆を人に投げつけたい所ですが、ここはトルコなのでそんなことはせずに起きてから今の今までずっとアニメを観ていました。30話くらいは観たと思います。僕たち多くの日本人は自分たちのことを無宗教だと思っていますけれども、節分の行為などは、行為それ自体に何の意味もなく、論理的にはそれに結びつかない「縁起」のようなものを結びつけて行なう「宗教的儀式」と言えるので、節分の文化も一種の宗教の現れだとも言えます。祈る時に跪いたり手を組んだりするのと全く同じようなものであるような気がします。まあ、そんなことを言いつつ、やはり豆を投げたかったなあと思う今日この頃です。

 

トルコには仲の良い人との別れの際などにハグなどの身体的な愛情表現をする文化がある。最初は戸惑ったものだが、トルコに来て五か月、今はもう慣れた。

日本にいるときからトルコを含め様々な国に別れ際などのハグの文化があることは知っていたけれど、それについて何かを考えることはなかった。ただ知識として持っていただけだった。けれども、トルコで実際にその文化を経験して、また半期で帰る日本人の友人たちの別れ際などを見ていたりして思う事があったので、本稿では身体的な愛情表現について触れることにする。

 

「別れ際」に限らず、日本人でもカップル同士であればキスやハグをすることはよくある。それらは基本的には「愛故に」行われることであると考えられている。しかし、僕は、非リア充なこともあってか、それらの行為は全て「性欲故に」行われるものであると考えていた。なぜなら、愛(これの定義が何であるにしろ)と行為の因果関係がわからなかったからだ。自分には愛と呼ばれるものとそれらを結びつけることが出来なかった。今考えると性欲も結びついてないように思われるのだが、それは置いといて。

とにかく、愛情表現と呼ばれる一切の行為を以前の私は疑っていたわけだ。そこに愛情なんてものはない、そう思っていた。

 

しかし、トルコに来て、そんな僕の道理がどうであれ仲良くなった人とはハグをしたりするようになった。今までは自分の頭の中で結論付けて愛情表現などと呼ばれる一切のことをすることは避けていたけれど、実際にやってみることでその考えは改められた。

 

他の人はどんなことを考えてハグをしているのかはわからないけれど、僕はハグをするとき、毎度毎度切なさのようなものを感じてしまう。

無論だが、僕たちは人間であり生き物であるのでいつかは死ぬし、その「いつか」がいつなのかということはわからない。もしかしたら明日にものすごく心を痛めつけるようなことがあり自殺してしまうかもしれないし、街中で通り魔に刺されるかもしれない。生きているということは、そのような経験をしたことがないという事でもあるので、僕を含め多くの人は普段から死というものを考え続けることはない。けれども、死の可能性というのは本当はいつでもどこでもある。僕は包丁を持った時にいつも思うのだが、今手にしている包丁の向きを変えて何センチか動かしただけで簡単に自分は死んでしまう。普段は自覚をしないだけで、人間の身体なんて本当に脆いものだ。いつも使っている包丁の向きと位置がほんの少し違ってしまっただけでなくなってしまう。死を意識しない、すなわち永遠のように思えるこの命も簡単に終わりが来てしまう。

ハグなどの愛情表現を実際にすると、そんな儚い人生の中で偶然会えて、楽しく過ごせた時間に対しての愛おしさを感じることが出来る。次があるかどうかなんて誰にも分らない。これが最後かもしれない。そんなことを思いながら別れることが出来る。だからこそ、その時間を共有してくれた人への感謝の念を覚えることが出来る。そして、そんなことを考えながらしたハグの一つ一つをきっかけとして、共有した思い出を後になっても思い出すことが出来る。

そう考えると身体的な愛情表現も悪いものではない。今までは、そのような行為を見ても「はいはい、どうせ頭の中は性欲しかないんだろ」と思っていた。もちろんそれもあるとは思うのだが、もちろん世界中で多くの人がやっているそれらの行為が「性欲故」のものだけというのも考えてみればおかしな話だ。実際に愛情表現を多用する文化に入ったことで、愛情表現というもののいい点も見出すことが出来た。ただ、「ばいばーい」って言って手を振って別れるよりも、一つ一つの時間、思い出をより大切なものとして記憶しておけるように思う。

 

 

 

 

書き終わって気づいたけど、こんなことを考えているのは柄でもないですね。こういう薄気味悪いことを書いているから非リア充なんだぞ、今泉。しっかりしろ。

聲の形を観て

どうも。久々のブログ更新な気がします。 私は今旅行でイギリスに来てます。今日は大英博物館に行ったのですけれど、あれ広過ぎて物ありすぎて1日じゃ回れませんね。ヘトヘトになって、結局まだ6割くらいしか回ってないので、この旅行中にもう一回行こうと思ってます。 f:id:ImaIma:20200127063915j:image

 

疲れたこともあって、夕方からはベッドに篭りNetflixで「聲の形」を観ていた。一度原作を読んだことはあるのだが、ストーリーを思い出せなかったこともあり、今度は映像媒体で楽しもうという気になった。 色々と感じることの多い作品ではあるけれど、僕が1番強く感情を抱いたのは川井みきという主人公の1人のクラスメートについてだ。

聲の形は主人公の石田将也が小学生の時にいじめていた西宮硝子に、高校生の時会いに行き、それからの彼の周りの人間関係を描いた物語だ。

川井みきというのは、小学生の時と高校生の時を通じての石田のクラスメートだ。彼女は真面目な学級委員長タイプの女性で、クラスメートからの信頼も厚いようなタイプの人間だ。けれども、彼女には些か八方美人なところがある。石田が西宮をいじめていた時はそれを周りに合わせて笑ってみているし、かと言って石田が「川井も笑ってみていただろ」というようなことを言うと「そんなことないのに、、、私はいじめてなんかないのに、、、石田くんひどい、、、」と言うようなことを言って泣き出すような人だ。しかも、嘘をついているようではなく、本当に「自分じゃない」と思い込んでいるようなタイプだ。

聲の形が素晴らしいのは、感動的なストーリーに加えて、全員が全員完全に"良い人"ではない事だと思う。川井みきもその典型となる登場人物で、私は脚本家の思惑通り彼女に対し嫌悪感を抱いたわけだ。

 

物語に触れるということは、自分を知るきっかけになる事だと思う。僕は川井みきに対して激しく嫌悪感を抱いたが、それが何なのかということについて考えるきっかけを得た。

僕が彼女を嫌いな理由は、自分の被害性のみに着目し加害性については全く持って感性が働いていないという事だ。 つまり、彼女は「自分が石田に悪く言われた。それでクラスメートからの評判を落とされかけた。」という被害には敏感なクセして、「自分の行動が西宮の心にどう影響したのか」ということについて顧みることが出来ないのだ。

人間というのは被害に敏感な生き物だ。日本でも原爆の悲惨さについて触れる機会は多いのに、南京大虐殺など、戦時中の日本が如何に諸外国に被害を及ぼしたのかということについては圧倒的に触れる機会が少ない(南京大虐殺の真偽についての問題は置いといて、あくまで例として)。

元より被害とは"自分が感じ"、加害は“他人が感じ”るものである。だから、被害について多く目がいってしまうことは当然の摂理だと思う。けれども、その摂理に甘んじて生きてしまってる人はなんとも自分勝手なように思える。自分しか見えていない上に自分の行動の影響を顧みることができない。

僕は好き嫌いをハッキリつけることが殆どないが、今はそれをつけることにするけど、そのような人は嫌いだ。自己陶酔に陥り周りがなにも見えない人間なんてみっともないと思ってしまう。自分が重さをわかるのは被害だけだ。だから被害は自分で受け止めればいい。けれども加害はそうじゃ無い。他人が感じることであるから未知数だ。その未知数の重みを考えずに生きることは、罪のように私には思える。

では、なぜそのように自分勝手に生きてはいけないのか、と言われると、答えが無い。僕は自分の倫理観としてそのような生き方を嫌い、そうじゃ無いのを良しとするだけだ。結局個人的見解の枠を出ないのも、心なしか悔しい思いはするけれど。

 

書いてるうちに寝落ちして、結局大英博物館に行ったのは昨日になっちゃいました。今日はオクスフォードに行き友達に会ってきます。お酒を飲むのが楽しみです。