雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

聲の形を観て

どうも。久々のブログ更新な気がします。 私は今旅行でイギリスに来てます。今日は大英博物館に行ったのですけれど、あれ広過ぎて物ありすぎて1日じゃ回れませんね。ヘトヘトになって、結局まだ6割くらいしか回ってないので、この旅行中にもう一回行こうと思ってます。 f:id:ImaIma:20200127063915j:image

 

疲れたこともあって、夕方からはベッドに篭りNetflixで「聲の形」を観ていた。一度原作を読んだことはあるのだが、ストーリーを思い出せなかったこともあり、今度は映像媒体で楽しもうという気になった。 色々と感じることの多い作品ではあるけれど、僕が1番強く感情を抱いたのは川井みきという主人公の1人のクラスメートについてだ。

聲の形は主人公の石田将也が小学生の時にいじめていた西宮硝子に、高校生の時会いに行き、それからの彼の周りの人間関係を描いた物語だ。

川井みきというのは、小学生の時と高校生の時を通じての石田のクラスメートだ。彼女は真面目な学級委員長タイプの女性で、クラスメートからの信頼も厚いようなタイプの人間だ。けれども、彼女には些か八方美人なところがある。石田が西宮をいじめていた時はそれを周りに合わせて笑ってみているし、かと言って石田が「川井も笑ってみていただろ」というようなことを言うと「そんなことないのに、、、私はいじめてなんかないのに、、、石田くんひどい、、、」と言うようなことを言って泣き出すような人だ。しかも、嘘をついているようではなく、本当に「自分じゃない」と思い込んでいるようなタイプだ。

聲の形が素晴らしいのは、感動的なストーリーに加えて、全員が全員完全に"良い人"ではない事だと思う。川井みきもその典型となる登場人物で、私は脚本家の思惑通り彼女に対し嫌悪感を抱いたわけだ。

 

物語に触れるということは、自分を知るきっかけになる事だと思う。僕は川井みきに対して激しく嫌悪感を抱いたが、それが何なのかということについて考えるきっかけを得た。

僕が彼女を嫌いな理由は、自分の被害性のみに着目し加害性については全く持って感性が働いていないという事だ。 つまり、彼女は「自分が石田に悪く言われた。それでクラスメートからの評判を落とされかけた。」という被害には敏感なクセして、「自分の行動が西宮の心にどう影響したのか」ということについて顧みることが出来ないのだ。

人間というのは被害に敏感な生き物だ。日本でも原爆の悲惨さについて触れる機会は多いのに、南京大虐殺など、戦時中の日本が如何に諸外国に被害を及ぼしたのかということについては圧倒的に触れる機会が少ない(南京大虐殺の真偽についての問題は置いといて、あくまで例として)。

元より被害とは"自分が感じ"、加害は“他人が感じ”るものである。だから、被害について多く目がいってしまうことは当然の摂理だと思う。けれども、その摂理に甘んじて生きてしまってる人はなんとも自分勝手なように思える。自分しか見えていない上に自分の行動の影響を顧みることができない。

僕は好き嫌いをハッキリつけることが殆どないが、今はそれをつけることにするけど、そのような人は嫌いだ。自己陶酔に陥り周りがなにも見えない人間なんてみっともないと思ってしまう。自分が重さをわかるのは被害だけだ。だから被害は自分で受け止めればいい。けれども加害はそうじゃ無い。他人が感じることであるから未知数だ。その未知数の重みを考えずに生きることは、罪のように私には思える。

では、なぜそのように自分勝手に生きてはいけないのか、と言われると、答えが無い。僕は自分の倫理観としてそのような生き方を嫌い、そうじゃ無いのを良しとするだけだ。結局個人的見解の枠を出ないのも、心なしか悔しい思いはするけれど。

 

書いてるうちに寝落ちして、結局大英博物館に行ったのは昨日になっちゃいました。今日はオクスフォードに行き友達に会ってきます。お酒を飲むのが楽しみです。