雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

気づいたら年の瀬

”大切な人と過ごす”とかいう忌々しきクリスマスも終わり、気づいたらもう年の瀬です。僕は昔からクリスマス→大晦日→お正月の怒涛のラッシュで人や町の雰囲気がガラッと変わるのが好きで、この時期になると心も穏やかになり家族や友達の大切さなど、柄にもないことを想ったりしたものでした。アンカラではあまり雰囲気が普段と変わらないので、そこは少し寂しいです。

 

年の瀬という事で、2019年を振り返ろうと思い文章を書き始めたけれど、正直に言えばやり残したこともビックニュースもあまりない。せいぜいドイツの風俗で童貞を卒業したくらいのものだ。それ以外のことは、もちろん記憶としては残っているけれど、それはただの出来事の記憶としてしかなく、自分の心の動きや感動などまでは思い出すことが出来ない(本当に心が動いていたのかという事は甚だ疑問に残るのだが)。

 

僕にとって過去とは確かに自分が通ってきた道ではあるけれど、認識できるものでもないしさして重要なこととは思えない。出来事の記憶はあるけれど、本当に大切なのはその出来事によって生じた自分の心であって、”今”が”過去の記憶”になった時点でその大切なものは抜け落ちてしまうような感覚がある。

 

それというのは、僕たちが記憶するとき言葉としてしか残しておけないからであると思う。例えば、部活の引退試合で負けたときの記憶があるとする。僕たちはそれを「悲しかった」「悔しかった」等、色々な言葉を尽くして表現しようとする。けれども、その時の気持ちというのはそんな言葉に表せるものではなくて「部活で練習してきたこと」「ずっと練習してきたのに思うようなプレーが出来なかった事」など、無数の出来事やそれに付随する感情が混ざりあったものであり、その本人にしか感じ得ないものである。

言葉というのは僕たちにとって、本来的には外から与えられた枠組みに過ぎない。そして、そのようなもので自分の感情を表すことは出来ない。どんなにぴったりはまる言葉を見つけられたと感じても、言葉になった時点で本来の感情とは違うものになってしまう。

 

だからこそ、この一年を振り返ったときにも、「タバコを始めた」「青春18切符で一人旅をした」「トルコに留学をした」等々、様々な出来事はあるのだけれど、どれもが無機質な出来事でしかなく、さして大切なものには思えない。その時大切にしたい気持ちがあったのかもしれないけれど、そんなものはとうの昔に抜け落ちてしまって、今の僕の頭には残っていない。

 

まあ、長ったらしく色々な事を述べてはみたけれど、要はなーーんも覚えてないってこと。言葉としての記憶しかないから。

でも、そう思うと寂しくなりますね。自分がどんなにその時悩んでも、嬉しくても悲しくても、そんなものはすぐに消えてなくなっちゃうんだから。過去を慈しむことすらさせてもらえない。

 

みなさんはどんな2019年を送りましたか?僕の最後の10代はあと10日ほどで幕を閉じてしまうのですけれど、上に書いたように無為な1年を送ってしまいました。まあ、それはそれでいいんですけれどもね。