雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

遺書

まず、自分が死ぬにあたって、何よりも気がかりなのは私を育ててくれた両親と慕ってくれた弟のことです。私にとっては、他の誰よりも、彼らが苦しむことが耐え難く思います。自分が死という選択をこれまで選んで来なかったのは、その彼らの苦しみを思うからに他なりません。生意気であり、ひねくれて育ってしまったという事だけでも僕には彼らに対して罪があるのに、それをさらに僕自身の死によって彼らを苦しめるというのはどうしようもなく自分勝手な行動であり、その点においてだけは自分の行動に対し後悔の念を感じずにはいられません。お母さん、お父さん、そして草祐、本当にごめんなさい。

そして、幼少期から私のことを見守ってくれたおじいちゃんおばあちゃん、おばさんおじさんにも謝らなきゃいけません。こんな風に育ってしまったこと、自分で死を選ぶという事があなたたちが私に向けてきたあたたかな態度の応報だと思うと、何とも不条理に感じ、それを生み出すことになってしまった自分の事を責めずにはいられません。

 

お母さんは私の人生において一番の理解者でした。遺伝的にも性格的にも、私はお母さんのものを多く引き継いでいたからなのかもしれませんが。僕が人生において選択をする際や、本当に些細なことでも、お母さんほど意思の疎通が取れる人はいませんでした。お互いあまり色んな事を口にするわけではなかったけれども、それでも通じあっているところがあったように感じます。

お父さん。お母さんとは全く違う性格だけれど、私が喋っていて楽しいと感じるのはやはりあなたでした。私やお母さんよりも感情的だけど、その分喜びを私達より大きく感じられるし、それでもお母さんと結婚したことがうなずけるような思慮深さがあったことも知っています。お父さんをこんな形で泣かせてしまうと思うと、私もとても悲しいです。

草祐。私たちは年が離れているし、私の性格もひねくれていたので、時にはストレスをかけたと思うし、悪影響も多く与えてしまったのかと思います。けれども、大学などで友達も少なかった私にとって、いつでも慕ってくれる草祐といる時間はとても楽しい時間でした。忙しくてあんまり遊べないときもあったけれど、これからいい人生を歩んで行ってくれることを切に願っています。

 

私がこの書で特に述べたいことは以上の事です。その他私の事は特にどうしようもないことであると私は感じるし、彼ら以外に私の死を、心から悲しんでくれるような人はいないと思っています。彼ら以外にとっては私の死など、時間が経てば忘れていくものであるし、私がいようがいまいが何も生活に変化もないことだろうと思っています。

それでも、私に愛を感じてくれる人がいたならごめんなさい。本当にごめんなさい。知らず知らずのうちに、あなたたちの愛を無下に扱ってしまう事があったとするならば、家族を苦しめることと同等の罪であると感じます。

それでも、私はこう思うのです。私はこれまでの人生で家族以外からの愛を感じることが出来ませんでした。

 

私が死を選ぶにあたって、特にこれといった苦しみがあったわけではありません。私は苦しみ故に死を選ぶのではなく、享楽の欠落故に死を選ぶのです。

私は、常に思っていたのですが、人生に対して一種の空虚なものを感じます。私はこの世に産み落とされて、あと数十年で寿命を迎える。ただ、その生命の循環の中に巻き込まれてしまっただけのように感じます。私たちは一日の大半を物を食べ、排せつをし、睡眠をとります。私にはその繰り返しがとてもつまらないものに感じたし、そこに一切の感動をも感じ得ません。また、生命活動だけでなく、学校に行き、たいして興味もない話を聞き、そうして気が付けば受験やら就職活動やらで、したくもない努力を周りに流されてやる。それがどうしようもなくつまらなかったのです。

私には心からやりたいと思う事がありませんでした。やりたいと思ったことも、気が付けば僕の頭からは抜け落ちていて、その欠落を感じる度に、自分の人生の彩のなさを感じていました。

何のために生きているのか。生命の循環の中にある私たちにとって、それは「楽しむこと」以外の解を得ることは出来ないと思います。それは、いわゆる「人助け」をしている人についても言えることで、彼ら自身が倫理的に生きたいからこそ、「人助け」をすることで自分を楽しませているのだと私は思います。ここについては多くを語ってもしょうがないので、書きません。

そのように考えているからこそ、私が私自身に本当にやりたいことがないことを自覚すると、その度に人生に対してどうしようもない空虚さを感じていました。それは私の自我が着実に芽生えて以来、いつも付き合わされてきた問題でした。

時には、一時的にどうしようもなく何か(私は特に女性に対してこのような思いを抱くことが多かったように思います)を欲し、それが得られない(得る自信がない)ことで鬱になることもありました。しかし、それらは一時の感情であり、寝れば忘れているようなものでした。だからこそ、寝て起きて、自分の感情が弱くなっている事を思うと、その度に「ああ、長い目で見れば自分にとって些細な事だったな。」と感じて、はたまたどうしようもない虚しさを感じていました。一夜寝るだけでは忘れないようなことでも、一か月二ヶ月、一年二年経てば、その強烈な欲求は確実に失われていったし、今持っている感情も、そのように歳月が経て失われるという確信があります。

私にはそれらのことが虚しかったのです。生きている理由がなかったのです。

 

 

ちょっとここらで終わりにしておきます。この手の事は頭が疲れるし、30分や1時間でやるものでもないと思うので、中途半端ですが終わりにします。また書く気力が出た時は更新という形で続きを書きたいと思います。

僕は自分の人生を振り返るなら、遺書を書くのが一番だと思っているので、なるべく本当の気持ちにそって書いたつもりです。それでも、本当に死を前にした人の緊迫感のようなものはないので、自分が自殺を選んだ時に書く文章とはまた違っているのではないかと思います。

今のところ自殺の予定はないです。けれども、上に書いたようなことを常日頃抱いているのは本当です。書いた通り、そんな気持ちの中、僕が自殺を思い留めているのは、僕の家族からの愛と彼らに対する恩ゆえです。あとは、自殺をするほどパッションがあるわけでもなく、ただ虚無を感じるだけなので、死のうが生きようがどっちでもいいという思いもあります。

もし、僕のこの文章が不謹慎であるのなら、謝ります。そしてこの稿は非公開とさせていただきます。