雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

勉強したくない

昨日はアンカラの日本人会の忘年会があり、会の後も留学生たちで深夜3時くらいまで飲み歩きました。おかげさまで今日は授業(午後だったけれど)を切り、ひたすらぐーたらする羽目になりました。まあ、トルコ留学中とは言え、僕は勉強しに来ているとは微塵も思っていないのでいいのですが。

 

勉強する気がないとは言え明日は取っている2つの授業のうちの1つであるHistory of Scienceの試験があるので、布団でだらだらと課題の本を読んでいた。内容は主に天動説から地動説に至るまでの系譜を、古代ギリシアの文化から順々に遡るといったものだ。面白いと言えば面白いんだけれど、英語で読んでいることもあってか、つまらないと感じることの方が多い。それでも、読んでいるのはテスト前に勉強していないとわずかながらにも罪悪感を感じるからだ。

 

しかし、このように罪悪感に強いられて勉強をしていると、自分がなぜこんなことをしているのかわからなくなってくる。

僕は幼少期からそこそこに勉強ができたので、特に苦労をすることなく、様々な知識を吸収してきたし、そのおかげで第一志望ではないけれど、すんなりと明治大学に入ることが出来たし、そのおかげでこうしてトルコで生活することが出来ている。

けれども、今日にいたるまでに吸収してきた知識というものは果たして何に役立ってきたのだろうか。もちろんそれによって今のようにそこそこの大学に入り留学を出来ているわけだけれど、そんなことは知識によって得ることの出来た、社会的な副産物に過ぎない。知識それ自体が自分の精神を豊かにし、人生を幸せにしてきているとも思えないし、はたまた僕の得てきた知識が人の役に立っているとも思えない。

 

僕はこのような”知識それ自体の意義”に対する問いを昔から抱いてきた。特に高校生の時はそれに真剣に悩まされた。けれども、大学受験を控えていたためか、はたまた解答に困ったためか、先生には「そんなことは考えるな。勉強が手につかなくなるから。」と言われてきた。それは、一見正しいようでもあるけれど、あくまで知識を得ることでの社会的副産物についてしか言及しておらず、僕の抱いてきたような知識それ自体の意義に対する解答にはなっていない。殊更に大学での勉強においては、高校の時のように問いから逃げることは出来ない。なぜなら、特に僕のような文系大学生(しかも哲学を主に勉強している)にとって、勉強の成績が社会的副産物につながるという事はほとんどないからだ。まあ、単位を取らないと卒業できないので、その点では勉強が社会的副産物にはつながるのだが。

 

僕は今まで勉強それ自体の意義を”楽しいから”としようとしてきた。実際、哲学や人類学には興味深いと感じることがある。けれども、そうしてしまうと、勉強の意義はあくまで自分が「楽しい」と感じたときにしか存在しない事になり、今のようにつまらないと思う時は向き合う必要がないことになる。またそれでは、自分自身の趣味の範疇を出ない。そこに知識それ自体の普遍的な意義というものはない。もし享楽というのが学問の意義であるとするのならば、「楽しい」と感じていない僕に対しても勉強を強いてくる大学と矛盾してしまう。

 

知識に対してどこか空虚なものを感じていしまうのは僕だけではないはずだ。僕の好きなイランの詩人のウマル=ハイヤームも、高名な学者でありながら、人生それ自体へのもの悲しさを詠っている。

幼い頃には師について学んだもの、

長じては自ら学識を誇ったもの。

だが今にして胸に宿る辞世の言葉は──

 水のごとくも来り、風のごとくも去る身よ!

(小川亮作訳)

 

勉強をして何になるのか。つまらないと感じながらも知識を入れることに何の意味があるのか。それをしたところで、僕の人生が豊かになるわけではないじゃないか。

 

と思うわけです。そんなこと考えていたら勉強なんて進みませんよね。知ってます。明日のテストはひどい点が返ってきそうです。まあ、こんなブログを書いた後、これから勉強に精が出るはずもないので床につこうと思います。単位、ばいばい。