雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

期待するな。惰性で生きろ。

週に2つしか取ってなくても、授業ってさぼりたくなるものですよね。不思議です。でも、授業をさぼった日っていうのは、何かしらその日の意味を見出したくなるもので、とりとめのないことや自分のことをゆっくり考えたりしたくなる。だから、こうしてブログとして、自分の考えを残しておこうと思うわけです。

 

僕は根っからの中二病なので、大学二年生となった今でも、中学生の時から変わらず、自分がなんで生きているのかという事をしばしば考える。考えても仕方のないことだし、そんなことしてないで勉強なりなんなり、役に立つことをしろよって話だけれども、それでも考えてしまう。だって、「役に立つ」という事には当然目的があるはずで、その目的を考えていくと最終的には「生きる目的」に結びつくような気がするからだ。

 

「生きる目的」というように大それた問いを立ててしまうと、その解に対しても大それたものを求めてしまうという事に最近気づいた。「○○のために僕は生きているんだ!!!」というようなもの(ここでいう○○)を求めてしまうことに気づいた。

しかし、そんなものを求めているけれど、果たして僕にとってそのようなものはあるのだろうか。僕は盲目的に「自分の人生にも目的があるはずだ」と思い込んでしまっているけれど、そんなものがあるという根拠はどこにあるのだろうか。そんなものもちろんない。僕が小説や映画を通して、それらの世界と自分を重ね合わせて、夢を見ているだけのことに過ぎないのではないか。

 

今までいろいろなものにその夢を抱いてきた。恋愛、勉強、SEX、旅行、食事、友情などなど。それらのことに、生きたいと思わせるようなある種のエクスタシーがあるのではないかと期待をしてきた。

けれども、そんなものを期待しているからこそ、いざ現実としてそれらを経験したときに虚しさを感じるのではないだろうか。大きな期待をして現実のハードルを上げてしまっているだけのことではないか。

もうそんな夢はさっさと捨てて、のらりくらりと大した目的も享楽も悲嘆もないまま生きていくのが正解であるような気がする。ないものを求めてもしょうがない。

 

この世にエクスタシーなんてない。「生きたい!」と思わせるような何かなど存在しない。それは、僕が見ている夢であって、本当は誰にもそのようなものはなくて、みんなのらりくらりと惰性で生きているだけなのではないか。

 

他人の腹の内なんてわからない。だからこそ、分からないからこそ、そこに何かあるのではないかと期待を寄せてしまっていたのが今までの自分だ。「他人は思い悩む事もそんなになさそうに、楽しそうに生きているように見える。彼らは生きる目的に足るような享楽をもっているに違いない。」そう思ってしまっていた。ただそれだけだ。

 

他人にもそんなものはないと思えば、人生に目的などはなく、ただ「死ぬのが面倒くさいから」というその一心において生きているのではないかと考えられる。誰もが「生きる目的に足るような享楽」などは持っておらず、ただ何となく、そこそこの楽しみとそこそこの悲しみで生きていると考えられる。

 

そう考えるからこそ、「私は○○がなくちゃ生きてけない」とか言っているような輩に対して不信感を抱いてしまう。「お前らホントにそう思ってるんか?それは、自分自身にそのような暗示をかけているだけ、もしくは自分自身の心に嘘をついているだけじゃないのか?その○○はお前が病みつきになるような享楽なのか?」と疑ってしまう。

 

という事で、もう自分の人生にヘンな期待を寄せることはやめることにした。生きててつまらないとも思うけれど、人生なんてそういうもので、ただ死を待つだけ。

もちろん言葉ではそう言えるけれど、今まで抱いてきた期待を今この瞬間からさっぱりと捨てることは出来ない。でも、これからはこのことを肝に銘じて生きていこうかな~と思うという事だ。

 

僕は過去にも今にも未来にも、そこそこの悲しみとそこそこの喜びしか経験しないんだろう。心がしびれるような、強烈な経験というのは来ないのだろう。

 

思うのですけれど、こんなことを考えてたら、そりゃ授業さぼりますよね。惰性で生き続けてるだけなのだから、わざわざ苦痛を伴って知識なんか得てもしょうがないですもの。哲学もインドの古代史も宗教も、学んだってしょうがない。とは言え明日も暇です。暇で仕方ないです。明日はちょっとくらい勉強してあげてもいいかな?