雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。アンカラではクリスマスと同様に正月感がありません。2日からテストがある人もいるくらいで、少し寂しい感じがします。毎年おばあちゃんの家に行き、親族と会っていた時間が今では少し恋しいです。日本にいるとちょっと面倒くさく感じていたんですけれどね。

 

こないだ始まった留学も気づけば半分が終わろうとしている。僕は一年間の留学なのでまだ半分あるわけだけれど、日本からトルコに留学している人の多くは半期の留学なので、彼らからしたらもう別れが目の前に来ているわけだ。悲しいことですね。

 

元来留学というのは手段である。というのは、留学はそれ自体が目的となるものではなく、留学での経験をその後の生活に活かす必要があるものであるという事だ。留学して終わりではない。だからこそ、留学の前の面接では留学先で何をしたいか、留学をその後のキャリアにどう結び付けたいかなどの事が問われるわけだ。

僕は倍率0.5倍の激戦をくぐり抜けてこの留学に来ているので、もちろん上のようなことを面接で聞かれた。今は覚えていないほどの即興物ではあったけれど。

僕個人としてはこの留学を今後の生活に活かそうという気はない。僕は日本に帰ってからもやりたいことがあるわけではないし、ただ”トルコに住む”という非日常的なフレーズにある種の憧憬を抱いたから来ているだけなので。

それでも一応留学生という身の上であるので、自分がトルコでの生活で何を得てきたのか、何を学んだのかという事については時たま考える。

しかし、いつ考えても、これと言って成長した点は思い当たらない。学問には相変わらずの怠惰な姿勢で臨んでいるし、英語力に関しても端からネイティブレベルを求めているわけではなくモチベーションがないので特に成長も見受けられないし、カルチャーショックも受けていない。この半期のらりくらりと暮らしてきたなあと、ただそれしか出てこない。そりゃ成長なんてしないわけですよ。

 

それでもわかることは、何の気なしにのらりくらり暮らせるほどには自分の適応力が高いという事。東京での実家暮らしとアンカラでの寮暮らし。環境はガラッと変わってしまったけれども、変わらず自分を保てる。このことは生活環境を変えて初めて気づけたことだ。なんとなく自分は適応力が高そうだとは思っていたけれど、留学に来てその事に自信が持てた。

 

しかし、そのような適応力を発揮するということは、同時に僕が如何に僕自身の外のことに対して重要性や関心を置いていないかを表している。外のモノに拘りがあるからこそカルチャーショックがあるわけで。僕のような拘りを持てない人にはそんなものは訪れない。外の事に対して感情が揺さぶられることがない。

それは果たして良いことなのか?確かにどこでも住めたりストレスを抱えたりすることは少ないのだが、こんな人生のどこに面白みがあろうか。外のモノに一喜一憂するからこそ人生は輝くのではないか。

どのような小説でもアニメでも、僕のような拘りのない登場人物はいない。物語の世界には、何か自分自身の外のことに対し一喜一憂するような人しかいない。それはつまり、一喜一憂できる人の人生しか面白みがないという事ではないか。僕も自分のような人が出てくる小説などを読んでもつまらないのではないか。

 

しかし、そのようなことを考えたうえで、一喜一憂したいと思うけれど、それは僕にとって可能なことなのか?少なくともトルコに来るくらいの非日常ではだめだった。揺さぶられることなどは何もない。何をすれば自分は外のものに揺さぶられるのか?わからない。何かに対して涙したい。喜びたい。苦しみたい。自分は泰平なんぞこれぽっちも望んでいない。だってつまらないから。

 

ってことで改めて、あけましておめでとうございます。まだまだ未熟者ですが今年も仲良く接してくれると嬉しいです。今年も特にやりたいことはないのですけれど、一回くらい感情の動きで泣いてみたいので、それを目標に据えてこの一年を送ろうと思います。