雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

カフェにて

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シーシャとタバコとチャイ。トルコ人に親しまれている嗜好品を軒並み楽しみながら、授業の課題図書である『Manifesto of the Communist Party』を読んでいる。少し飽きたし疲れてきた。日本とトルコの喫煙の文化の違いは常日頃実感している。日本よりも喫煙に対するイメージは悪く無く、多くの人が嗜好品として楽しめている感じがする。嗚呼、良いなぁ。喫煙者の僕にとっては。

 

昨日、日本の文化を勉強しているトルコ人の学生にこう聞かれた。

「何で日本人は自分の感情を直接言葉に表さないのか。」

とても返答に困る質問だった。僕も日本人だから無意識的に感情を直接言葉に表さないようにしているし。あと、僕も日本人の1人とはいえ全員の日本人の気持ちなんてわかっているわけでは無いし。まあ、考えてみて面白い題ではあるので、あくまで"全日本人"ではなく"僕自身"がどうなのかということで考えてみた。もしかしたらそれが他の日本人にとって当てはまることなのかもしれないし、そうじゃ無いかもしれないし。

1番根源的な要因は 恐れ なんじゃ無いかと思っている。僕は何よりも自分の周りの人に嫌われること、他人から酷く扱われることを恐れている。それは、僕が保育園児の頃に少し酷い扱いを受けていたことが原因かもしれないし、1人でいることが多いから孤独が如何に自分にとって耐えがたいものなのか予想がつくからかもしれない。それらの感情は、僕たち日本人が常に集団と化して行動することを躾けられ、またそのように行動しているから起こるものではないだろうか。僕たちは「義務教育」という名の元、道徳などの授業でひたすらに集団生活の大切さを教えられてきた。チームワークが如何に大切で素晴らしいものなのか。1人で出来ないこともみんなでやればできるようになる!、云々。僕は、自分で言うのもなんだが、小さい頃から素直な人では無いので、そんなような文言は「クソくらえ!」と思ってきた。でも、思うに、それらの教育は何も道徳の授業に限った話では無い。保育園児の頃から運動会でも音楽発表会でもなんでも集団での競技をやらされてきたし、学校のどのような行事にしてもグループ化が為されて、その中で僕たちは楽しんできた。そういったものは、言語化されてない暗黙知ではあるけれど、僕たちに集団化の重要性を教え込んできたのではないだろうか。だからこそ、僕はグループ、友達の間から外される事を恐れるのでは無いかと思う。もちろん、その暗黙知の教育には歴史的背景があるだろうが、そこについては僕の推察の及ぶところでは無いのでここでは何も語らない。ただ、僕はそのように経験したというだけのことだ。では、どうしたらグループから外されないのか。それは、グループの総意と自分の発する意見を同一にすれば良い。何故なら、そうすれば自分という個は集団(2人の関係であれば「相手」)の中に埋没するから、わざわざ自分を弾き出そうとするものも居なくなるし、安心して慣れ親しんだ集団生活の中で、孤独に怯えることなく暮らすことができる。つまり、僕たちが感情を直接言葉に表さないのは、そのように自分自身を他者との関係性の中に埋没させる為に、他者の気持ちを際限なく読みとろうとし、他者の意見に沿うことが出来るような、より抽象的で敵対しないような物言いをするということでは無いだろうか。

 

やっぱり日本人である自分が日本人を完全に客観視することは出来ないだろうし、あくまで僕の考えの及ぶ範囲ではあるけど、こう思います。

考えさせられる質問だったなぁ。