雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

時間と自分

僕はトルコで週に4コマしか授業を取っておらず、それらも月曜と火曜にしかなくてとても余裕のある生活を送っているはずなのだが、本日月曜日、自主全休を作ってしまった。それというのは今日は少し鬱っぽかったのと、なぜかドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読みたいと思ったから、という何ともだらしのない理由によるものだ。なんとなく頑張らなきゃなあ、と思いつつ、せめても自分の精神活動だけは進めようと思って一つ文章を書くことにした。

 

こうも時間があると、自分の過去を振り返ったり、現在の自分の状態、また将来のことに関して思いを巡らせることが多々ある。だって、暇だから。

僕の幼かったころ、特に中学生くらいまでのころ、と今の自分を比較するととても同じ人のようには思えない事がある。昔の自分は快活で、勉強もよくできたし、努力も人一倍出来たように思えるし、人からも良く好かれていた。変わらない事と言えば、人からの自分の見られ方をよく気にしていて、いわゆる「いい子」に見られたいという気持ちは人一倍強かったように思える。心の根底の人からの見られ方を気にしているという点では今も同じだけれど、今では昔のように、自分の生が喜びに満ち溢れていないし、何かに向け努力をするという事もすっかり忘れてしまったようだ。

そんな過去の僕自身が、現在トルコで自堕落な生活をしている自分を想像できただろうか。否、ありえない。一年前の僕でさえ予想が出来なかっただろう。

昔の僕の夢は宇宙飛行士だった。昔から、考えてもしょうがないような、現実離れしている事を考えるのが好きだったこともあり、どうしても宇宙空間に出てみたかったし、それが叶わなくても、せめて自分が生まれたったこの宇宙がどのようにして始まったのかを探求したかった。そんな幼いころの夢が、今では仏教の道に進みたいときている。

このような夢を持つこともまた、過去の自分には想像できもしなかったことだ。

 

こんな風に自分の人生を振り返るからなのかもしれないけれど、僕はあまり夢をもつこと、自分を律して何か一つのものに向かって努力をすること、に重きを置いていない。自分がその時その時で描く夢など何か一つの出来事があれば、いや何もなくとも簡単に移ろうような儚いものだ。夢に限らず、過去への感じ方、他人に対する態度、機嫌。確固たるものというのはなく、いつでも変わっていく流動的なものだと思っている。

そう考えたときに、果たして自分という存在自身も、過去現在未来を通して確固たるものであるのかわからなくなってくる。確かに、自分の心が時間とともに動く際、そこになんかしらの関係性はあるだろう。けれども、絶え間なく自分の心が動いていく中、どこに確固たる自分の所在を求めることが出来るのだろうか。過去の自分が別人のように思える、この感覚は正しくて、本当に過去の自分と今の自分は別人のようなものなのではないだろうか。そうして、同じように、未来の「今泉耕祐」も現在の「今泉耕祐」とは全くの別のモノになっているんじゃないかというような気がする。

だから、努力なんてしたってしょうがないというような思いがいつも頭の中にある。「今泉耕祐」自身が未来で何を望んでいるのかなんてわかりっこないし、そんな曖昧な不確実なもののために苦しい思いをすることも馬鹿々々しいような気がしてしまう。僕はあくまで、時間の流れとともに降りかかってくる色々なものを受容するだけで、それによって自然と自分自身も意図することなく変わっていくように思う。

 

ここまで書いて、だから何だよって話なんだけど。僕は自分に言い訳することがとっても上手なので、こうして授業をなんとなくの衝動でさぼってしまった過去の自分を正当化してみたりするわけです。それでは、『カラマーゾフの兄弟』に戻ります。せっかく休んだしね。