雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

FKK

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僕は今ドイツのフランクフルトにいます。トルコの建国記念日で週に2回しかない授業が全て潰れたのでまるまる1週間の旅行です。明日は兼ねてから行きたかったケルン大聖堂に行きます。楽しみです。

 

まだ、今日ドイツに着いたばかりであまり何もしてないんだけど、唯一友達に教えられたFKKという風俗に行ってきた。

お店の中にはほぼ裸の美女が歩き回っていて、声を掛けてきて、好みの人がいたら交渉をして部屋へいきプレイをするという形式のお店だ。僕にとってこのようなお店に来るのは初めてだった。中ではソフトドリンクが飲み放題で、サウナやジャグジーもあり、それらの施設で休憩を出来る。

サウナで喋ったおっさんが「ドイツにはこういうお店がいっぱいあるのだけれど、ここは本当にレベルが高いんだ」と話していた通り、本当に美人しかいなかった。彼女らの多くがルーマニア人だった。

 

僕は最初プレイはせずにサウナとか入りながら眺めているだけにしようと思っていた。でも、「これも勉強だ。」と思いプレイまで、そのお店の全てを味わってみることにした。

 

僕が昔好きだったプロ奢ラレヤーという人がこんなことを以前言っていた。二郎系はもちろんドイツで食べることは出来ないが、まさにこれに沿うように、男性の身体的な快楽をほぼ最大限に満たせるのがFKKだと思う。ドイツでいうならFKKいってセックスをしてサウナに入り、それからソーセージを食いながらビールを飲む、といったところだろうか。

 

僕も彼の唱える幸福論に沿うような、快楽の体験をしてきた。確かに、彼が唱えるように、FKKでの体験において、身体はこれでもかというくらい快楽を浴びる。けれども、実際にやってみて、これで幸福になれるのなら何といいことだろうかと思ってしまった。

 

僕は女性にそこまで慣れていないのと、押しに弱い事から、入って20〜30分くらいで、風俗嬢の説得に負けて部屋に入った。そしてプレイを終えてからは、1〜2時間くらいサウナに入ったりタバコを吸ったりジュースを飲んだりしていた。プレイ中もそれらの休憩の際も、自分の身体が喜んでいることはとてもよくわかった。今、このブログを書いている時でさえ、身体の状態はとても良く、気持ちよく寝れそうだなぁと思う。けれども、身体が快楽を得れば得るほど、対照的に自分の心が如何に満たされていないのかを痛感させられる。身体を満たすだけで心も満たされるなんていうことはないということを正面から自覚させられる。プレイ中もサウナに入っている時も、快楽を得て喜んでいる身体を、1m上空から冷めた目で見ている自分の心がある感じだ。

自分が常に抱えている寂しさのようなものが、ここまでの身体の快楽をもってしても治らないことは、より僕の心を荒ませた。「じゃあ、どうすりゃいいんだ」って。

 

それでも、サウナに入りながら周りを見ていたとき、裸の美女を片腕で抱きながら楽しそうに喋っている男どもがいっぱいいた。とても幸せそうな顔だった。「男の幸せはここにあるんだ」とでも言わんばかりの顔つきだった。僕はとても嫌いな顔だったけれど。

結局、他の人のやっていること、一般的に言われていることでは自分は幸せを感じることが出来なかった。それがとても悲しい。自分も彼らと同じように楽しめれば、風俗に限らず、何かに対して幸せを感じ、病みつきになるようなエクスタシーを感じることが出来たらどんなにいいことか。僕には何に対してもそのような思いを感じることのできるものがない。言い換えるなら、感性が弱り切っている、全てのものにマグロ状態だから、自分の人生がとても平坦なものに感じられる。再現性を求めるような、心が燃えるようなものがなくて、つまらない。そして人生がつまらないということが、どうしようもなく悲しい。

 

という、初の風俗レビューでした。風俗はもういいかなぁ。