雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

記憶と実感

ここ3日くらいとても寝つきが悪い。僕にとってはこのような経験は初めてで、トルコでも平気で5時間昼寝をしても夜の9時には寝れていたくらい寝つきには自信があったのだが、最近はどうも上手くいかない。今日もとても強い眠気を感じ、10時前には布団に入ったのだが、目をつぶってもずーっと頭の中に様々な光景がよぎって寝れなかった。それは「愛とは何か」「自分はなんで生きているのか」などの考え事のような類ではなく、もっと妄想に近いような類の映像のようなもの。過去の様々な出来事において違う選択をした時の自分や、近い未来(トルコでも日本に帰ってからも)で起こすかもしれない自分の行動などが延々と頭の中で再生される。

こういった眠る前の頭の働きというのは不思議なもので止めようとすればするほど、とめどなく湧き出てくるし、止めようとしなくても延々と再生は続く。

時折寝るのを諦めて、目を開けて白い壁と窓から見える星を見るのだけれど、それらのものは僕を眠りに誘うことはなく、寧ろ新しい考え事の種になる。

 

その時決まって浮かんでくるのは「なんで自分は今トルコにいてベッドに寝ているんだろう」という事だ。

過去の自分は確かに自分の意志で留学を決め、この地を選んだ。だからこそ今自分はここにいる。その事実は僕の記憶の中にもあるのだが、それがどうも現在の自分と結びつかない感覚がある。まるで、いつの間にか別の世界に瞬間移動してきてしまったような感覚だ。なぜ自分がここにいるのか理解が出来ない。

思えば、そのような感覚は留学で住み慣れていない環境に生きているからこそ強く感じるだけで、日本にいたときも少なからず感じることはあった。「なぜ自分は今この人とご飯を食べているんだろう」「なぜ自分は今明治大学の授業を聞いているのだろう」「なぜ今自分はコンビニエンスストアでバイトをしているのだろう」。

もちろんすべての行動には動機があるはずだ。そうして思い返せばいくらか動機は思い出せるのだが、その動機と自分の現在との因果を、頭の中では結びつけられても自分の心の中では納得しきれない。

 

僕は人生における様々な場面において、自分の意思をもって自分の行動の選択してきたつもりだった。それでも、このようなありさまだ。確かにあったはずの自分の意志は、思い返してみるとただの抜け殻のようなものに過ぎなくて、中身はどこにも見当たらない(この”中身”というものこそが、記憶を自分の実感として蘇らせるのに必要なものだと思っている)。

 

僕は僕自身の意思というものを持っているつもりだったが、果たしてそんなものはあったんだろうか。よく「他人に流されず、自分で自分の未来を決めろ」的なことが、所謂”意識が高い人々”によって叫ばれるが、人生の選択というのはそのときそのときの一瞬の感情、それも外的影響によってもたらされる衝動のようなものに大きく左右されるのではないだろうか。だからこそ、思い返してみたときに、記憶がただの抜け殻で、確かな自分の意志としての中身がなくなっているのではないだろか。

 

このようなとりとめもないことを考えていると、トルコで出会った大好きな教授が「人間は宇宙の果てのことまで解明しようとするけれど、一番近い自分の心さえも全く分かってないじゃないか。」と言っていた事を思い出す。本当にその通りで、いくら考えても謎は尽きない。自分の空虚な心も、自分が過去と現在の因果を実感できないことも、何もかもわからない。上に書いているように、いろいろな推論をしてみても、パズルのピースのようにカッチリはまるような納得感は得られない。

 

 

夜も更けてきました。どんなに眠れない夜でも、結局僕は人間なので眠らなくてはいけません。毎晩毎晩同じように眠らなくてはなりません。これを死ぬまで繰り返していかなくてはなりません。そう考えると、睡眠は鮮やかさの欠片もない空しい行為のように思えるけれども、眠らなくてはなりません。

なので、今日もいつもと何ら変わらないベッドに戻ります。おやすみなさい。