雑記

トルコ留学してました。最初は留学記のつもりでしたが、留学終わってからも書き続けたいとおもいます。

酒のむしかねぇ!!!

先週の土曜日だったか、自分のキャパシティを大きく上回る量でお酒を飲んでしまい、めちゃめちゃハイになりその後ガチガチに潰れました。いやあ、その節では色んな人に迷惑をかけてごめんなさいと心の中で思っているつもりなんだけど、ちゃんと飲んだことで味わえた全知全能感には他のものでは味わえない快楽があって、内心またやりたいなあと思ってしまう自分がいます。

 

久しぶりにめちゃめちゃ楽しいと思ったからこそ、僕はそれを反省しなくてはいけない。趣味も特に好きなこともない僕の人生において、享楽を得られたということは、それ一つ一つが大きな出来事であり、そこに再現性を求めることは自分の人生を豊かにする鍵になるのではないかと期待してしまう。

酒に酔った時の全知全能感とはどういうことか。有り体に言えば、「気が大きくなる」という事だが、それはつまり「他人を恐れなくなること」であると思う。

 

僕は小さい頃から他人の目をすごく気にする性格を持っている。なので、子どもの時も親に言われるでもなく、ずーっと優等生を演じてきたし、今でも祖父母などに会うとその”優等生キャラ”というのが抜けてこない。

また、それはこの家族に対する”優等生キャラ”というものに限らず、突き詰めればすべての行動に対して同じことが言える。常に集団や相手との自分の役割というものを見定めようとし、それに合うような行動を選択してしまう。

例を挙げるとすると、気になる異性をご飯に誘いたいとする。そうしたとき必ず「この人は自分を異性としては見てないのではないか。そうした時、もし僕がそのような感情や行動を表してしまったら、彼女と僕の関係においての僕の役割から逸脱してしまう。」と考えてしまう、といった具合だ。関係性における自分の役割からの逸脱というものを恐れ、自分の行動を選択してしまう。なので、上の例において僕が気になる異性(異性に限る必要もなく、男友達でもそうなのだが)を自分から誘えることはまずない。相手側が「自分に対して何かを誘って来る」など、相手の自発的な行動を注意深く観察した上で、自分の役割の許容範囲というものを見定めて、その範囲内と思われる行動でしか他人と関われない。

わかりやすくする為に異性関係を用いたが、これは全てのことに当てはまり、本当に些細な「隣の人にペンを借りる」などの行為でも同様に考えてしまう。

 

では、なぜ自分の役割を見定めようとするのか。それが他人へ干渉することへの恐怖心だ。僕は他人が怖い。仲良くなった人でも、その腹の内をわかったことなんてないし、何がその人の気分を害するのか、何に喜びを感じるのか、そんなことはわからない。自分でさえ、こうして色々考えてみても未知なことばかりであるのに、他人なんてわかるはずがない。けれども、そんな未知の他人にさえも、自分は嫌われたくないと思ってしまう。他人からの承認というものを失ってしまったら、自分という存在がまるで確立されなってしまうような恐怖感がある。だからこそ、自分が他人に対してある欲求がわいたとしても、「これ以上を望むな」と自分を丸め込もうとし、現状の役割から逸脱しないような行動を選択する。

 

しかし、このような自分の選択では満たされない事を、19年生きてきてやっとわかってきた。僕も人間であるから、人間同士の関係というものに対してはとめどなく欲求が生まれるし、いくら「これ以上を望むな」と自分に言い聞かせた所で、欲しているものは欲しているのだ。自分の内から湧き出てしまう欲求をないものにすることは出来ない。その事実を、自分でも認めないように努めて過ごしてきたけれど、認めなければならない。それは、自分に対して誠実な行為ではない。自分の欲求に対しても誠意をもって向き合わなければいけないように思う。

 

と、頭ではわかっているんだけど、そう簡単に出来るわけはなくて。だからこそ、この間めちゃめちゃに酔っぱらって、他人に対する恐怖感とか、自分の役割の憶測だとかを考えられなくなったことで、全知全能感を味わったわけで。また、その感覚に代えがたい快楽を覚えたという事は、裏を返せば、素面の自分が如何に他人への恐怖感に縛られているのかという事がわかってしまう。

 

 

ブログで考えた事とか、自分の問題点とかを書くんだけど、結局いつも解決には至らないのが何とも悲しいですね。なんか、「これが解決策」っていうものを結論付けたところで、結局的外れになっちゃう気がするんだよね。まあとりあえず、今回は「酒飲むしかねぇ!!!」っていうのを解決策として、このブログを締めたいと思います。あと、トルコでは飲酒は18才からなので安心してください、合法ですよ。